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古史(禁書)の謎

竹内文書は茨城県磯原の皇祖皇太神宮天津教の管長職竹内家に代々伝えられたという神大史関係資料である。そこには元始神の宇宙創成、神々の地球降臨、人種・文明の発生が年代誌的に記されている。竹内文書によれば私達、人類は過去2度にわたって(上古25代、不合朝73代)高度の文明を建設してきたことになっている。そしてムー、アトランティスの沈没をもたらした大異変によって崩壊した。現在はいわば第3次文明の段階にあたっている。それだけに竹内文書の登場人物は実に多彩だ。キリスト教の創造神エホバも、人間の祖先とされるアダム、イブも出てくる。中国神話の元始神である盤古神も欠かすことなく登場する。もちろん、記紀の元始神である天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)も国常立尊(クニトコタチノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)も出てくるが、これらの神々は、いずれも竹内文書によると主神とされていない。また記紀に出てこない神々の名やその活躍も多く記されている。ということからみれば、この竹内文書はきわめてスケールが大きく単に日本一国のみの「創世記」でなく、人類の「創世記」である。つまり記紀とはまったく異質の神話体系ともいえる。

竹内文書の中で、大異変の記録は予想以上に多い。宇宙の創造から地球の「修理固成」にいたる過程、「天神七代」というが、ともかく、神々の地球移住後になってからも「地球万国ドロの海となる」ような大異変が百回以上も記されている。たとえば、上古第二代天皇(33世も続く)の治世だけでも、実に「天下とこよの国みな泥の海となること八十四たび」とあるくらいだ。「地球万国泥の海となる」とか「天下泥の海となる」という、つまり”大洪水”を示唆するような表現のものが多いが、なかには「万国大変動、泥海となる」というように火山、地震活動を示唆するものがある。地球が過去に幾たびか大異変に見舞われたという伝承は、世界の各地に多く残っている。

竹内文書によると、太古、世界の人類は皮膚の色がみな同じー黄色の肌をしていた。それが上古第二第天皇のときの大異変により、地球の気候、風土などが大きく変わったため、地域(神々の子孫の各居住地域)別に、黄人の他に、赤人、青人、黒人、白人の、いわゆる「五色人」が生じたという。竹内義宮氏の説明によると、五色人の各総代(各大陸、各国の民王ら)は、当時天津国とも呼ばれていた日本に来朝し、皇祖皇太神宮を参拝、また「万国の政庁」で天皇から親しく「万国の政法」を学んでいったという。また、神宮の祭祀をはじめ、主要な国家儀式には、五色人の団結と親和の象徴として、必ず、五色の旗とか五色の布が飾られた。その習慣が、現在も民間での端午の節句や家屋の棟上げ式などに、五色の吹流しをかかげて祝う行事に残っているという。要するに現存の人類の起源を、おそらく大異変にもとづく放射能の変化による遺伝子への影響(大異変の後遺症)のひとつとする竹内文書の「五色人」誕生説は、きわめて近代的でもある。

古代末期の大異変で、特に注目したいのは第十四代国之常立天皇である。この名称は、日本書紀の元始神国常立尊(クニトコタチノミコト)を連想させる。竹内文書の伝承によれば、この天皇の代はなかなか大変だったらしい。地球万国泥の海となり、万国人全部が死ぬという大異変に見舞われただけでなく、「害毒虫、猛鳥害」があり、さらに「人禍斬除」の責任者を任命したとある。これは大異変についで食料危機、さらに治安問題まで起こったということだろう。天皇は都を飛騨の国に移し、そこを作戦本部として天浮船(アマノウキフネ)で世界を巡航、災害と治安の回復に努力した。第二十一代伊邪那岐天皇(イザナギ)の代の大異変は、新しい国生みといっても差し支えないくらいの再建事業を必要とした。すさまじいものだった。第二十二代天疎日向津比売(アマサカリヒニムカイツヒメ)の代に起こった大異変は「地球万国泥の海となる」と同時に「人三尺となり前後木に餅がなる」とある。「人三尺となり」(1メートルくらい身長が短くなり)、また、その大異変の「前後」に「木に餅がなる」という現象はどういうわけか?これは、異常放射能が生物の遺伝子に与えた影響と大凶作(飢餓の発生=笹に実がなる)とでも解釈できそうである。竹内文書では、この二十二代天皇の別名を天照大神(アマテラスオオミカミ)としており、記紀神話と同じく弟の須佐之男命(スサノオノミコト)と対立し、弟の命(ミコト)が姉天皇の国土を「荒らした」ので、姉天皇が怒って、「天に昇り、日球国の磐屋(イワヤ)に隠れ、万国政り、トコヤミとなり」と述べている。地球万国が大変動し、人が三尺となるような大異変の原因は、この荒々しい皇弟の破壊行為にあったのではないかという推測ができる。

不合朝第六十四代天皇は、三十一人の皇子と四十三の皇女がいたと竹内文書は伝えている。その三十一人の中に「知勇大力」の皇子がいた。その名は「万国巡知彦尊」といい、またの名を「桃太郎」という。この若い皇子はその名から察するに、言わば天皇の名大として世界各国を巡る「巡察使」であったらしい。「桃太郎」といえば「鬼退治」があるが、人一倍すぐれた「知勇大力」でもって世界を巡察するのが仕事だったとすれば、もちろん、治安問題の局地的解決も行ったであろう。その「お供」の例の三匹の動物であるが、キジは航空隊、サルは工兵隊、そして犬は騎兵隊のようなものだったのではないかと竹内義宮氏は述べている。航空隊は、大異変によって失われた「天浮船」の残存艦隊。サルの工兵隊は技術部隊。犬の騎兵隊は高速機動の機甲部隊だった。

エホバが天神第五代の天一天柱主大神(アメハジメアメハシラヌシノオオカミ)であり、アダムとイブが上古第二第天皇が中東に派遣した皇子(民王)の孫であり、モーゼが渡日して不合朝第六十九代天皇から律法を授けられたとなると、イエス・キリストが竹内文書に登場してきても別に不思議でない。竹内文書によれば、キリストは神倭朝第十一代垂仁天皇のとき、十字架の難を弟の身代わりによって逃れ、チチの国である日本の八戸に上陸、青森県の戸来村に住み、百十八歳でなくなったという。このキリストの日本渡来という驚天動地の仮説に挑戦したのは、山根キクだった。昭和13年のことだった。彼女の研究によれば、キリストは神倭朝第十代崇神天皇の即位六十一年の一月五日(十二月二十五日ではない)、エルサレムの郊外ベツレヘムの地に生まれた。その後ヘデロ王の幼児虐殺を神のみ告げで知り、エジプトに逃れた一家はやがてユダヤに戻り、ナザレに住みついた。十二歳のとき、エルサレムで神殿の祭司たちと議論して勝ったほどの天才少年のイエスは、やがて父母弟妹に別れを告げて真理探求のため東方へ旅立つ。目的の地は日本だった。途中インドのヒマラヤの山中に釈迦の師といわれるカラ仙人の子孫を訪ねたりして、日本の能登の国の宝達港に着いたのが十八歳、垂仁天皇の即位十年のときだという。

イエス.は越中の皇祖皇太神宮の神官武雄心親王の弟子となり、足かけ五年修行し、天皇からユダヤ国王の印授を賜わり、帰国の途についた。しかし、ローマの圧制下のユダヤに帰ることは、ある意味では戦場にもどるに等しかった。それだけに天皇は彼に「向こうでは死んではならぬ」という異例の勅を下した。また恩師の武雄心親王も、はなむけに神代伝来の「天国天座合作の小刀」を守り刀として下賜した。ところが、ユダヤに戻ったキリストには、天皇や親王が危惧したように迫害が待っていた。そして十字架で処刑されるべくゴルゴタの丘に送られた。しかしキリストは死ななかった。実際に十字架にかかったのはイエスの弟だった。山根キクのいう十字架身代わり説をとれば、キリストの復活の奇蹟の謎も解ける。キリストがユダヤを後にして、世界各地を伝道しながら日本の青森県・八戸に上陸したのは、十字架の奇蹟の四年後のことだったという。彼は「八戸太郎天空}と名乗り、各地をめぐり、上陸七ヵ月後に越中の皇祖皇太神宮に参拝、恩師の武雄心親王と再会した。その後、また各地を巡ったが、景行天皇即位十一年の十二月二十五日、戸来嶽で死んだ。

竹内文書によれば、偉大な五色人は必ずといってよいほど来日し、天皇にお目にかかり、皇祖皇太神宮を参拝した。この慣例は後世ー不合朝末期から神倭朝初期ごろーになると、いくらか変質して来た。つまり、単に表敬のためだけでなく、上古代以来の歴史や万国政法(トコヨノクニマツリホ)を探り、宗教のあり方などを学ぶために、皇祖皇太神宮を訪れるということになった。というのも、不合朝後期に、いわば集中的に襲った大異変によって、世界各地の上古代以来の文明がほとんど壊滅したため、文明の基礎的ノウハウさえ、この皇祖皇太神宮で学ぶ以外に方法がなくなってしまったからである。したがって、この皇祖皇太神宮留学のために、すでに記したモーゼやキリストだけではない。中国古代の伝説的帝王である伏義氏、少し下って儒教を開いた孔子や、その流れを汲み王道政治を唱えた孟子などの聖賢。インドで仏教を開いた釈迦。さらに中東からはイスラム教の開祖マホメットらが来日したと伝えている。

現在の日本の国旗「日の丸」を制定したのは、不合朝初代天皇である。と竹内文書は伝えている。上古第二代。神々の子孫がこの新しい住地である地球に住んで、第二の世代が生まれたころだ。気候温暖で、地上の楽園でもあった天越根国の青空にへんぽんとひるがえっていた「白地に赤」の日章旗。これは地球の各地に住む五色人たちに対し、「太陽の直統国」-自分達の真の祖国ーへの無限の誇りと憧憬とを慫慂するシンボルだったのであろう。このシンボルが、大異変のために衰亡した「上古二十五代」王朝に代わって、新たに地球に君臨した「不合朝」によって、やはり国旗として採用制定されたのも、同王朝が、「太陽の直統国」としての自覚を抱いていたからであろう。竹内文書によれば、現在皇室の紋章である「十六弁菊花」の紋章もやはり上古第二代天皇が作ったことになっている。もともと菊は日本の植物ではない。平安初期に中国から渡来した中東原産の花だ。この「菊の紋」と同じモチーフの紋章が西アジアに散見される。古代ペルシャの王室の紋章、聖都エルサレムの「嘆きの壁」に刻まれている紋章にもこの「菊の紋章」がみられる。だが、竹内文書によれば菊花紋章の起源は、植物の花のモチーフではなく、太陽(日輪)のモチーフだという。皇室が「日の御子」である以上、その紋章は日輪でなければならない。上古第二代天皇が、地球を十六方位に分けた、そしてその方位(地域)に皇子らを民王として派遣した。それをモチーフとしたものを天皇の紋章として定めた。つまり「菊形」であっても、決して「菊花」ではないという。佐治芳彦「謎の竹内文書」より引用。

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コメント

戸来伝説は私がもっとも興味のあるひとつで、景行天皇の代で来日したとすれば、2世紀近辺、これは景教が唐代7世紀に伝わったより、はるか昔でであり、ミステリー性がアップします

ちなみに石川県にモーゼの墓があるそうですが、こちらは個人としては今のところちょっと?

いつかは行きたいです

投稿: 遊歩道 | 2011年4月 3日 (日) 10時31分

WIKIによれば、日本への景教は秦氏によるとなっていて、この場合だと3世紀。
まさしくミステリですね

投稿: 遊歩道 | 2011年4月 3日 (日) 10時48分

太古代、地球には現代を超える高度な科学文明が花開いていた。その中心は日本だった。ロマンを感じるね。

投稿: マイキー | 2011年4月 3日 (日) 23時02分

今週休暇で念願のキリストの墓に行ってきました。青森山間の山村にキリストの墓、本当でないにしろなぜこんなところにあるのか?もしかするとキリストの弟子かもとますます謎が深まるばかりです

さらに、太古のピラミッド(見学済み)もありオーパーツ的な要素がありすぎて結論は出ませんでした
やはり村合併のとき新郷村とするより、戸来村としたほうが良かったんじゃないと思います

名物といっても原木しいたけぐらいでめぼしいものがありませんでした。

投稿: 遊歩道 | 2011年5月19日 (木) 13時53分

青森まで行って実地検証されたなんてすごい。びっくりです。謎が深まるばかりですね。

投稿: マイキー | 2011年5月19日 (木) 22時11分

お勧めスポットというわけには行きませんが、面白かったです。
写真で有名な薄気味悪い赤ちゃんの謎も解けました
こちらは商店街の払い下げ子供マネキンを無理やり赤チャンに仕立て上げたのが原因です
すべて30年来の夢でした。チョウと違って場所がはっきりしているので、良かったです

投稿: 遊歩道 | 2011年5月19日 (木) 22時26分

30年来の夢を実現されて、御立派です。今、私も、これから”夜の10時出発”で夢を実現しに出かけます。

投稿: マイキー | 2011年5月20日 (金) 20時02分

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